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大須大道町人祭の歴史
 かつては名古屋一と呼ばれた盛り場「大須」も戦後の復興期を過ぎると近代化された魅力に乏しいことから街の活力を失い、そのにぎわいを過去のものとしていた。昭和53年(1978)10月中日プロダクションの故高橋寿々夫氏を中心に「名古屋まつり」に対抗して、ふたたび生活の場、人と人の出会いの場として取り戻そうと、亡びつつある大道芸を呼び集め、天下の大道を舞台とした”街は人にとって生活ドラマの舞台である”との認識で下町大須で手作りによる「大須大道町人祭」開催された。名古屋まつりのように着飾った派手さはないが,昔ながらの小屋掛け,猿回し,がまの油売り,バナナの叩き売り、のぞきからくり、人問ポンプ、七味唐辛子売りなどが披露され大須の南店街は夜遅くまでにぎわった。
 官製のまつりに対抗するという意味で「名古屋祭り」と同じ日にぶつけた「大須大道町人祭」はすっかり話題になり「おいらん道中行列」,「子供英傑行列」など次々に名古屋まつりの「三英傑行列」に対抗する行列を手作りによって作り上げていった。毎年新しい企画を加えなが本年28回を迎えるまで、庶民の祭りとして市民にささえられ大道芸人の集う全国的にも有名な祭りとなっている。
 
参考  

 昭和50年6月大須商店街で,学生を中心とした若者たちによる祭「アクション大須」が開催された。この祭りの計画は名城大学の自主ゼミ「現代哲学研究会」(指導・池田芳一助教授)の都市問題に関する討議から生まれた。「名古屋の繁華街にはうるおいがない。盛り場とは,見知らぬ人が声をかけ合い,ドラマがあるべきだ。」大須の盛り場一帯がゼミの学生の注目を引いた。「大須で祭りをやろう」。池田助教授を中心に多くの学生が集まり祭りは午後3時にスタート、ハッピ姿の学生たちがア−ケ−ド街のつじつじでカゴを旦ぎ、祭りの主役たちである市民を運んだ。ロックコンサート、路上ファションショ−,移動演劇,落語,ガラクタ市、幻灯会など奇抜な催しが、次々と場所と時間を変えながら午後9時過ぎまで開かれた。当時の新聞によると,その日はおよそ30万人の人出があったという。昭和50年の成功に引き続き昭和51年には2日間にわたって「アクション大須」は開催された。1日目は「若者の祭り」,2日目は「家族の祭り」として前年同様「アクション大須」は多くの市民を集め、かつての盛り場の大須をよみがえらせることに成功した。

 この2年間の「アクション大須」が契機となり、大須大道町人祭がはじまったとされる一方で、いやまったく無関係との当事者の意見がある。この2年間の「アクション大須」が契機となり、大須大道町人祭がはじまったとされるが、アクション大須が大須復活のきかっけとなったのは事実としても 組織的にもまったく違うものである。